◆2002/02/04(Mon) her-story T [No.123]

記憶以前の話。
3月30日夜中、出生。低体重児(数日違いで保育器は免れる)。母子別室。授乳時間にはぐっすり寝ていて、その後泣き出す困ったちゃんだった。
困った看護婦さんが粉ミルクを飲ませたら、体に合わず、胃洗浄される。
あげく、夜には寝ないでぎゃんぎゃん泣き喚くので、母はほとんど徹夜だったらしい・・・ほんと、困ったもんだ(^^;
1歳ではしかにかかる。で、なぜかカルピスを飲ませてみたら、あっさり離乳。
2歳ごろにはヘルニアになり、入院。
母が入院してから生まれるまでに数週間かかり、生まれるときには深夜料金がかかり、
こんどはヘルニアの手術・・・というわけでやたら金のかかる子どもだった。で、いつからか「金食い虫」と呼ばれるようになる。

いちばんふるい記憶の話。

いちばんふるい記憶・・・いつのことかはっきりしていないけれど、たぶん妹が生まれる以前の、たったひとつの記憶。
その日はきっと30日で、私はまあたらしいパジャマを着せてもらって、「‥才何ヶ月になりました」と父に「ごあいさつ」している。
しゃべってたのは私じゃない。母だった。さて、そのとき父は私の「晴れ姿」を見てくれたか、それともテレビに向かっていたか・・・

子どものころ、父は玄関横の書斎にいつもこもっていた。机は窓に向いていて、だから私は、父の後姿しか思い出せない。
いまだに、父のイメージは、本に囲まれて私に背を向け、机に向かっている。

次の記憶は、妹を産むために(いや、産んでからかな?)入院していた母の病室。だから、たぶん3歳のおわりごろ。
私は、父の作成した「名前リスト」をもって、そのころ住んでいたアパートの隣にあった産婦人科の中の、母の病室にいた。
病室の窓から鮮やかな緑の車がとまっているのが見えて、一緒にきていた「さとこちゃん」と、「わあ、すてき」と声を上げた。
そしてその声は、私自身にとてもそらぞらしく聞こえた。

その後、母は退院してきたけれど、わたしは叔母に連れられて、しばらく親戚の家で過ごすことになった。
東北新幹線で大宮まで行って、そこから上野、山手線に乗り換えて東京、東海道新幹線にのって。
どのぐらいいたのかはおぼえていない。母方の祖父母の家では、「家庭菜園」をいじくっていた祖父の姿をおぼろげに覚えている。
そのあと父方の祖父母の家で数日過ごした。
「夜は『うちに帰る』と泣いて大変だった」と、最近その祖父に聞かされた。


さて、あたしが幼稚園に入る以前の記憶は、ここまで。


◆2002/02/05(Tue) her-story U [No.124]

さて、幼稚園のころのこと。
うちの母がピアノ講師だったこともあってか、私は「・・音楽幼児園」に入れられた。
この「幼稚園」ではなく「幼児園」というところにひそかに園長先生のこだわりを感じるのであるが、
それはまあおいといて、3月生まれの私は4歳になってすぐ入園。年少組に入れられた。
そこでの、はじめての記憶。
年長組の女の子ふたりが、嫌がるわたしをむりやり年長組の部屋へ連れて行った。
で、「これ、踏んで」。
示された先には透明な液体が落ちている。
「なんで」
「なんでも」「やだ」「大丈夫だから、これはちみつだよ、きたなくないよ」
なんとまあ単純なことに、そう言われたわたしはそれを踏んでしまった。はちみつだって普通踏まないだろうに・・(^^;
「きゃはははは!ふんだー!」
「それねえ、つばだよ。きったなーい!」

学年滑り込みのわたしは体も小さく、何かにつけておくれのでる子どもだった。
運動能力もいまいちで、縄跳びができるようになったのも年長か、小学校に入ったころか・・・。
ちなみに、自転車に乗れるようになったのも遅かった。小3。

みんなでお散歩に行ったこともあった。よく見かけるでしょ、隣の男の子と手をつないで歩いてるやつ。
わたしは右足が内側に入り込む癖があって、そのせいでよく自分の足に躓いて転んだ(いまだに自分のくるぶしをけとばしたりする) 。
そのときも多分そうで、わたしはぱたり、ところんだ。そのとき、なぜか手を離さなくって、
わたしは手をつないでいた男の子にずずっと引きずられてしまったような気がする。
みんなが紙芝居を見ている間、わたしは別室で傷の手当てをしてもらった。
泣きじゃくるわたしに、先生は「このくらいのことでそんなに泣くんじゃないの」と諭した。わたしのひざには、目を凝らすと小さな傷跡がある。

みゆきちゃんの誕生日のこと。
みゆきちゃんはひとつ上で、たぶん小学校にはいりたてだったのだろうか。
わたしは年長組で、でも、まだなかなか「いっしょにあそぶ」ということが苦手だった。
そのみゆきちゃんの誕生日。アパートにいた同い年くらいの子はみんな呼ばれた。
一言もしゃべらなかった「ちえちゃん」とわたし以外の、全員。
今でも覚えている。ひとつ下ののぞみちゃんの一言―「みゆきちゃんの誕生日によばれなくて、よかったね」。
わたしは母になにか言ったのだろう。母はうちにあったありったけの文具を集めて私に持たせ、
階下のみゆきちゃんの家まで、ぐすぐす泣いていたわたしを連れて行ってくれた。「なかまにいれてあげて」と。
わたしはとても、恥ずかしかった。来てはいけないところにきてしまったのだと思った。
のぞみちゃんはその後、大阪へ引っ越した。のぞみちゃんのお母さんは泣いていた。わたしは、とても、ほっとした。

家に妹がいた記憶がない。
わたしは、外であまり遊ばない子どもだったかもしれない。友達はみんな、幼稚園の違う子ばかりだった。
幼稚園では、母親同士が仲のよかったゆうちゃんやかよちゃんと仲良しであることになっていた。
でも、ゆうちゃんには、ほんとうは、あさかちゃんとゆかちゃんという仲良しがいて、かよちゃんも、特にわたしと遊ぶわけではなかった。
だから、たいていひとりでねんど遊びや石あつめをしていた。
彼女たちとは小学校まで一緒だったが、どうして仲良しということになっていたのか、いまでもわからない。

「音楽幼児園」だったから、もちろん音楽教育はよくやった。年少のときはピアニカ、年長では小太鼓をやった。
ゆうちゃんは指揮をとっていた。彼女はピアノが上手で、のちに音楽大学へ入ったそうだ。
わたしも彼女も音楽教室に通っていて、わたしたちは一緒のクラスだった。

さて、小学校に上がる前のこと。
わたしは落ち着きのない子どもで、がたがたといすを揺らす妙な癖があった。それを心配してか、母はわたしにこういった。
「小学校へいったらね、ちゃんと座って、動いちゃいけないんだよ」と。
動いちゃいけない。
そのことばは、わたしの中に強烈なイメージを作り出した。微動だにすることなく座っている子どもたちと、鬼のような形相の先生。
今でも思い出せる、その画面は血のように真っ赤だ。・・・怖いと思った。学校なんて、行きたくないと思った。

小学校以前の記憶はここまで。




◆2002/02/06(Wed) her-story V [No.128]

今・・怖いです。正直。
でも、今書かなくてどうする。ここを乗り越えないでどうする?
・ ・・・というわけで、小学校時代(1年生)です。

6歳になってすぐの4月、小学校に入学。7月に引越しを控えていたため、1学期だけは隣の学区へ越境通学をしていた。
だから、周りの友達とは、全部ばらばら。幼稚園で一緒だった子が、少しいたのかな。
幼稚園は私立だったし、遠かったから、市内のいろんなところから集まってたからね。



小学校は、私が思っていたほど怖いところではなかった。ちゃんと普通の風景だったし、ちょっとくらいごそごそしても怒られなかった。
なーんだ。
でも、友達と遊ぶのは相変わらず下手。本を読むのが好きだった。

授業中に手を上げたことがある。
席が教室の一番後ろの隅っこだった私は、一生懸命手を上げたの。で、さされた。私は立って、はりきって答えた
・ ・・あれ?
前の席の女の子が立ってる。答えてる。
先生が私に気づいた。「あ、ごめんね、あなたじゃないの」。
名前のよく似た子だった。私は自分と聞き間違えたのだ。
「うわー、まちがえてやんの」隣の席の「しのぶくん」はそういった。すごく、すごくはずかしかった。
そうやってなにかと私をからかってきたから、私は彼が大嫌いだった。

7月に引越しをした。
そのころ私は金魚すくいで買ってきた金魚を飼っていて、それを大事に大事に連れて行った。
なのに。
ついたとたん、ビニールの袋が破けて、私は中身をぶちまけてしまった。
石畳の上で跳ねているオレンジ色の金魚。わたしは一瞬唖然として、それから・・・
・ ・・記憶が途切れてる。ただ、引越しを手伝ってくれた父の友人のおじさんが、バケツに金魚を入れてくれて、なんとか金魚たちは助かった。
1匹くらいは死んじゃったかもしれないけれど。
その金魚たちがいつまで生きていたかは覚えていない。ただ、庭に穴を掘って、埋めてあげた記憶だけはどこかにひっかかっている。

水曜日の朝、「衛生検査」があった。
ハンカチとティッシュをちゃんともっているか、とか、つめはきれいに切ってあるか、とか。
あるとき、私はつめを切り忘れていて、検査に引っかかってしまった。
「どうしてつめをきらないの」
私はしかられたくない一心でこたえた。
「お母さんが伸ばしておきなさいって言ったの」。
「帰りの会」の前に、私は先生の前に呼ばれた。「どうしてうそをついたの?」
私はなんと答えただろうか。ごめんなさいといったのか、それともシラを切り続けたのか。
先生は「おおかみ少年」の話をしてくれた。うそはいけないんだよ、と。それで、確か私は泣いたんじゃなかったかな。反省したの。
でもそれでまた、しのぶくんにからかわれたんだ。
学校では低学年にかな、家庭と学校の連絡用に、「連絡帳」というのがあった。その日も私はうちに帰って、それを母に見せた。
そして、ストーブの前であったまっていたら、母が隣に座って、「今日悪いことしたのね?」といった。
そのとき、私はつめのことをすっかり忘れていてわからなかったのだけれど、そのことでまた、母にしかられた。
どうしてなんどもなんども同じことでしかられなくちゃならないのだろう。私はまた泣いた。

それから、2年生の終わりだっただろうか。しのぶくんは転校していった。
ちょっとうれしかったような、どうでもいいような、そんな気持ちだった。




◆2002/02/06(Wed) her-story W [No.129]

さて、2年生になってすぐのこと。
私たち一家は、半年間をモスクワで過ごすことになった。

4月の半ば、モスクワへ発った。その日の朝、玄関横の花壇には、異様におおきく花弁を広げた真っ赤なお化けチューリップが咲いていた。
そして、モスクワへわたったその4月の末、チェルノブイリの事故が起こった。
外ではなるべく遊ばないように、といわれていた。そんなこと、子どもはすぐに忘れてしまうのだけれどね。
いったんお休みしていた音楽教室の、同じクラスの子たちからたくさんお見舞いの手紙をもらった。
なかには、「はげちゃうんじゃないか」と心配していてくれた子もいたとかいないとか・・・。

モスクワでは、モスクワ大学に近い、いわゆる「文教地区」に住んでいた。一般のロシア人もいたけれど、外国人の多いアパートだった。
わたしは日本人学校へ通うことになった。半年間だけだから、という理由で、ランドセルは持っていかなかった。リュックで通った。
商社マンの子どもがほとんどで、彼らは外国人専用のきれいなアパートに住んでいた。滞在時期も数年と長かったから、みんなランドセルだった。
私の住んでいた部屋より二階上に、同じように大学の先生の子どもが住んでいて、必然的に私は彼らと一緒に遊んだり、学校へ通ったりしていた。

あるとき、親に人形を買ってもらった。抱っこして、向きを変えると「ママぁ」というその大きな人形は、私のお気に入りだった。
その日、上の階にいた女の子とその友達が、私のうちに遊びに来た。そして、その友達が、その買ってもらったばかりの人形を見つけた。
その子は、わたしが嫌がるのも聞かずにその人形を振り回し、無理な動きをさせて、ついに壊してしまった。
足はゆがみ、「ママぁ」とも言わなくなってしまった。私は泣いた。
そんな私に、両親は「ゆうこちゃん」(上に住んでいた女の子)のところへ行ってきなさい、といった。「責任を取って」といってきなさい、と。
わたしは泣く泣く、人形をかかえてその子の家へ行った。そのうちのお父さんが、人形の足は直してくれたけれど、あの声はもう戻らなかった。
両親はわたしについてきてはくれなかった。
その人形は、いまでも実家の部屋の片隅に置かれ、ほこりをかぶって大きな目をみひらいている。

学校では、休み時間になると本ばかり読んでいた。友達とはあまり遊ばなかった。心配した先生が、そのことを親に知らせた。
もちろん、家では「もっと友達と遊びなさい」といわれた。でも、わたしはどうやったら仲間に入れてもらえるのかわからなかった。
そのころ、女の子の間では「おうちごっこ」がはやっていて、クラスの女の子のほとんどがそれに参加していた。
ひとりだけ仲良くしてくれた女の子がいて、その子も「おうちごっこ」に入れてもらっていた。わたしも一度だけ入れてもらった。
でも、2回目は入れてもらえなかった。
「どうして?」とわたしは聞いた。
「予約しなかったから」といわれた。そんなこと誰も教えてくれなかった。

そのころのあだ名は「サル」。ことあるごとに「サルみたい」といわれた。
一度、「どうしてサルって言うの?」と聞いてみたことがある。
「さあ?サルみたいな顔だからじゃない」といわれた。スクールバスの中だった。
「すけちゃん」と呼ばれていたその子からは、帰国してから一度はがきが来たが、わたしは返事を出さなかった。
ただひとり、なかよくしてくれた「なっちゃん」とはその後も文通は続いた。
しかし一度は帰国していた彼女も6年生の終わりにまたハンガリーへ行くことになり、以来どうしているのか、今はわからない。

家に妹がいた記憶があるのは、モスクワにいたこのころからだ。
母にしかられたり、学校でいやなことがあると、わたしはかならず妹に当たった。親には見つからないように・・・。

そんなこともあったけれど、異国での生活は楽しかった。
学校も日本の学校より比較的自由だった。こうるさい検査もなかったし、ロシア語の授業では、みんなで学校の外へ散歩に行ったこともあった。
ロシア語の授業は好きだった。かんたんなことばしかわからないけれど、
しゃべるとまわりのおじさんやおばさんがとても喜んで、かわいがってくれた。
わたしは「クヴァス」というロシア独特の飲み物が好きで、よく母のお使いで、大きな缶を下げてそれを買いに行った。
5月にはトーポリが舞い、日の長い夏には街中にある森で遊び、甘いアイスクリームや白くてふわふわのパンをたくさん食べて、
10月、初雪が舞うのを見届けてから、わたしたちは帰国した。




◆2002/02/13(Wed) her-story X [No.132]

さてさて、帰国してから何が起こったか。

実は時差ぼけで一日寝過ごしてしまったらしいのだが、わたしはまたもとの教室に戻った。
特に勉強が遅れていたわけでもなく、学習面での苦労は何もなかった。
国語の教科書をゆっくり読むのがつまらなくて、よくまだ開いていないページを読んでいた。
男の子とけんかをしたこともあった。背中からランドセルをけられて怒ったら、その声を聞きつけた先生に叱られた。
男の子はどこかに逃げていていなかった。
残念ながら、この半年間はまったく記憶が抜けているので、飛ばして3年生に進みましょう。(笑)

で、その3年生。クラス替え。
それがいつ、なぜおこったのか、わたしにはまったくわからない。

「くせえ、きたねー!さわんなよ!」
それがはじまりだった。
あっという間にクラス中に波及。はじめは男子。
それからクラスの中でも力の強くて男子と仲のいい女子、それから「整列」のとき、わたしの前にいた子たち。
わたしがなにかでよろけると、ものすごくいやな顔をして「さわんないでよ!」
二つ並べていた机はわずかに隙間を空けられた。

わたしはしばらくして、担任の先生にちらりと訴えてみた。
「悪口を言った奴は全員、たて」先生はそういった。「たて!」
ぱらりぱらり、たった。「これで全部か?」先生はそういった。
ときちゃんとかなえちゃんが立っていない。でも、わたしはうなずいた。
だってそうする以外に何ができた?
「あやまれ」
「・・ごめんなさい」
「よし」
先生は満足げな顔で教室を出て行った。


それで、彼らのしていることが、本当にクラス中に知れ渡ってしまった。
ゆうちゃんやかよちゃんも同じクラスだった。彼女たちは知らん顔だった。
話しかければ普通に対応してくれたけれど、むこうから話しかけてくることはなかった。

「学校はどう?」夕食のときにはよく話題になった。
「ハカセがこんなことしたんだよ、ゆうこちゃんがこんなことして、それで・・・」
みんながやっていたことを、自分も仲間になっていたように報告した。そのどの呼称も、わたしが本人に向かって使ったことはなかった。
ゆうこちゃんはすごく気が強くて、わたしとは1年生から6年生まで同じクラスで、女の子ではわたしに一番つらく当たった。
「ハカセ」はその名のとおり頭のいいやつだった。親同士は仲がよく、わたしは一緒に英語のレッスンにも通わされた。苦痛だった。
今でも親同士は仲がよい。

そんなときに運悪く、わたしはぎょう虫検査にひっかかった。(いまどき・・^^;)
みんなの前で先生に呼ばれた。保健室か教室か、どちらか忘れたけれど、薬を渡された。
先生たちは「ひみつっぽく」やっていた。

3年生と4年生の記憶がごっちゃになっている。
時系列がぐちゃぐちゃなので、思いついたまま書きますね。


その日は母も父も出かけていて、妹もいなくて、わたしは家に一人でいた。
で、キッチンへ行って流しの下のとびらをあけて、そこに並んでいたものを物色した。
出刃包丁・・・重い。ふつうのやつ・・・ちょっと違う。
フルーツナイフ。これだ。
あたしはそれをとりだして、自分の胸に向けた。
ゆっくりと・・胸の先で止めた。しばらくそのまま静止して・・・
あたしは体から包丁を離した。
無理だ。
そう思った。

学校を休もうとは思わなかった。負けたくなかった。学校を休んだら、親が心配するし、奴らの思うままだ。
でも、休んだほうがよかったのかもしれない。
事実を曝したほうがよかったのかもしれない。
そうすれば、わたしは今も「ハカセ」や「けんたろう」の両親とにこにこ接したりする必要はなかったのかもしれない。

4年生になって、わたしは特設合唱部に入った。音楽は好きだった。
まあちゃん、という女の子と少し仲良くなって、彼女はクラブにいる間は仲良くしてくれた。クラスでどうだったかは覚えていない。
5年生になって、わたしたちは同じクラスになった。

ある日、先生がお休みをしたのだったか、自習時間ができた。
わたしはまたうしろからこづかれたり、ごそごそ何か言われたりしていた。できるだけ我慢していた、けれど、さすがにキレた。

たちあがってうしろの机をけとばした。
けられたけんたろうは目をまるくした。わたしはそのまま、手近にあったものをぜんぶ彼に投げつけた。
けんたろうのとなりのゆうこちゃんが、「なんでけんたろうだけなんだよ」とか言っていた。理由はわかっていた。
けんたろうがいちばん弱いからだ、そして先生がいないからだった。
チャイムがなるとともに、わたしは教室をとびだした。チャイムかなる前に教室を出るのはいけないことだと思ったから、それまでは教室にいた。
げたばこのかげに隠れた。給食の時間で、おなかがすいた。
ゆうこちゃんと、もう一人誰かと、隣のクラスの先生がわたしを探しに来て、わたしはあっけなく見つかった。
わたしは叱られなかった。誰も叱られなかった。
偽善者。そう思った。

音楽教室は帰国後すぐ、半年遅れで開講しているクラスに編入していた。ピアノをやっていたのはそのつぎのクラスまでだったかな。
そのクラスは、他学区からみんな集まっていたから、すごく気楽だった。
ピアノは、モスクワにいた半年間、夏休みだけは特別に学校のピアノを借りていた。
母が先生で、それはとても厳しくて、わたしは毎回半泣きになりながらレッスンした。
そして、そのクラスではグループレッスンのほかに個人レッスンも受けなければならなくて、
わたしの個人レッスンは、自宅でピアノ教室を開いた母がやることになった。
よその子にはやさしい「先生」だったけれど、わたしにはとても厳しかった。
1度、「話を聞いていない」と頬をたたかれたことがある。そんなつもりはなかった。ただ、ちょっと反応が薄かったのかもしれない。
母にたたかれたのは後にも先にもそれきりだ。

そのころ、わたしのトレードマークはほとんどきったことのない長いみつあみ。母が毎朝髪をとかして、編みなおしてくれていた。
わたしの髪は細くてやわらかく、そのせいですぐにからまった。
男の子から「ラーメンマン」っていわれたこともあった。「おまえ、ラーメン好きだろう、だからそんなに髪のばしてんだろう」って。
残念ながら、わたしは今でもそんなにラーメンが好きなわけじゃない。

理科の時間、レンズかなにかの勉強だった。
レンズと先生の周りにみんなが集まった。先生はレンズを覗いて言った。
「誰かのもじゃもじゃ頭が映ってるな」。
先生の前に立っていたのは、わたしだった。

修学旅行を控えた4年生の終わり、わたしは生まれてはじめて、美容院で髪を切ってもらった。
それこそ、後ろから見たら誰だかわからないくらいに、短く。




◆2002/02/19(Tue) her-story Y [No.134]

髪を切ってすぐ、わたしは5年生になり、クラス替え。前年と同じ状態が続いていたのは1ヶ月もなかったと思う。状況はすぐに自然消滅した。

でも、だからってふつうにみんなと遊べるようになったわけじゃない。
もともと人と遊ぶのが好きだったわけでもないしね。

音楽教室のこと。
そのころわたしは「アドバンス・コース」にいて、クラスは「そこそこ」のできで卒業した。
けれど、もうピアノはいやだった。母に習うのも限界だった。
母のほうもそれを感じたのだろうか。
妹は、できのよい子が通う特別コースに進んでいて、ピアノのレッスンもちゃんと、個人のピアノ教室へ通っていた。
わたしは同時進行で時々やっていたエレクトーンのほうが楽しくて、そこからエレクトーンのほうに転向しようとしたが、
「エレクトーン・秋組」は人がいなくて開講できず、また半年待って編入した。
それは5年生の春だったろうか?それとも6年生の春だったろうか。
まだ、時系列がぐちゃぐちゃ。

そのエレクト−ンのクラスに、「つるさん」がいた。かわいくて、勉強もよくできた。学校では4年生まで同じクラスだった。
でも、彼女はわたしが入って数ヵ月後に、エレクトーンをやめてしまった。

わたしは水泳も習っていた。ゆうちゃんのお母さんのすすめで、たしかかよちゃんの弟も通っていた。
そのとき、ゆうちゃんはわたしと同じ合奏部のようこちゃんと仲良しで、
ようこちゃんとわたしは別に仲良くなかったけれど、ゆうちゃんがいるときはあいまにはさんで時々しゃべった。
何を話したかは覚えていないけれど、彼女に言われた一言だけは記憶している。
「なんでつるさんがエレクトーンのクラス、辞めたと思う?」
わたしは「わからない」と答えておいた。
わたしは、つるさんの「十八番」を練習した。その曲は今でもそらで弾ける。

5年生の冬、わたしは合唱部をやめた。ただ、飽きてしまったから合奏部に移ろうと思ったからだった。でも、まあちゃんはすごく怒った。
「たった1年半でやめるとは思わなかったよ!」そういって、しばらく口をきいてくれなかった。そのうち、機嫌を直してくれたけれど。

それで、わたしは6年生から合奏部に移った。でも、途中からはいったのでなんだかなじめない。
4月に「楽器決め」があった。合奏部の女の子は、連れ立って教室へ行った。
わたしは一人取り残されて、教室にはいっていいのかどうか、迷った。
時間が過ぎて、結局教室には入れなくて、わたしは家に帰った。
わたしは、「バス」になった。正式な名前は覚えていないけれど、古くて大きな電子楽器で、ごく簡単な音しか出せなかった。
でも、自分が決めに行かなかったのだから、仕方がなかった。

つかず離れずの関係。ときに誰かと仲良くなったり、離れたり。
そんなことを繰り返していた。
わたしはみんなと帰る方向が逆だった。だから、一緒に登下校した友達はあんまりいない。
だから、友達と一緒に帰ってみたくて、わざと遠回りして帰ってみたこともあった。

「あたしの第1親友かもしれないね」、といわれたことがある。6年生のとき。
比較的家が近所で、帰る方向も同じ、数少ない友達の一人だった。
「『第1』ってなに?」と、まず思ったのはそのことだった。じゃあ、きっとこの子には第2親友や第3親友がいるんだろう・・・と。

もちろん、別に仲良しの友達がいなかったわけじゃない。
学年の終わりごろ、なんとなく仲良くなった子達がいて、
休みになると、ときどき「ぼうけんごっこ」と称して、土手や学校の裏山を探索にいったりした。
ただ、彼女たちと学校でどう接していたのかは覚えていない。合奏部で一緒の子たちだったような気がする。

好きな男の子もいた。
もちろん、そのころには相手をひきつけるようなテクなんて持ってないから(笑)、
なんかかんかとちょっかいをだしていただけ(今でも似たようなもんか?)。バレンタインも、渡さなかったな。
同じクラスで、けっこう仲がよかった女の子は渡してた。彼女も、同じ子が好きだったから。
でも家族に食べられちゃったらしいけど・・・(^^;

クラスの子を相手に、けんかをしたこともある。
6年生のときで、そのとき、なぜだったか女の子がほとんど残っていて、誰かに呼ばれて、女の子はみんな中庭に行った。わたしもいこうとした。
そのとき、だれかが言った。「あ、はるかちゃんはこなくていいから」。
みんないなくなった教室で、わたしは取り残された。
それから、記憶は途切れ途切れ、
わたしはひろみちゃんや、ほかの女の子たちに向かってかさを振り上げた。
そのなかに「第1親友」のみかちゃんもいた。たがいに、何か怒鳴りあっていた。
「やれるもんならやってみなよ」
わたしはかさをおろした。そんなことしたら自分が叱られると知っていた。
でも、今でもそのシーンを思い出すと、どうしてそのまま殴らなかったのかと悔やまれてしかたがない。
殴っていたら、どうなっていたのだろう。
わたしは、そのままうちへ帰った。途中でコートの飾りリボンを落として、みんなが拾ってくれて、翌朝返してくれた。
何事もなかったかのように、今までと何も変わらず、日は過ぎていった。

数年後、彼女に偶然会った。少し話をして別れた。
それっきりだ。
わたしは実家に帰ると、あまり外へ出かけない。

わたしは、母の勧めで私立中学を受けることにした。
推薦はらくらくクリア。試験もすんなり。
もうひとり、一緒に受けた子がいた。成績も、申し訳ないがあまりよくはなく、学校にもほとんど来ていなかったが、それでも推薦をとった。
「金つみ」のうわさが流れていた。
わたしたちは二人とも、ちゃんと合格した。
でも、わたしはそのことを、ぎりぎりまでみんなに隠しておきたかった。
みんなに「あれ、いない?」といわせたかったのだけれど・・、結局知れ渡ってしまった。

でもとにかく、これで解放される。

実家のわたしの部屋(元・・今は妹に占領されている)には、そのころもらった色紙がある。
私学へ行くことを知った子たちが、わたしともうひとりの子に、特別に書いてくれたのだったか、みんなで書いたのだったか、そこは記憶にない。

卒業式には、中学の制服のスカートで来るように言われていた。
でも、わたしたちの行く学校の制服は、卒業式までにはできていなくて、わたしとその子は私服だった。
母が着せた水色チェックのソフトプリーツのスカートは、紺一色の中でひときわ目立った。




★ 2003/03/19(Wed)  her-story Z No.376 

そうこうして「女子校」に身をおくことになったあたし。
これでもう、あいつらにいじめられずにすむ・・・。

私は安心していた。
それから、どうやったら可愛くなれるか考えた。だって街中にいくんだし・・。

当時(今もだけど)の私の悩みのひとつは、「おでこが狭い」こと。
それこそネコもびっくりするほど、あたしはおでこが狭いのだ。
昔それに気づいた母が、祖父に私のおでこをそりあげるように頼んだくらいだった。

ところが、悪いことにわたしはそのおかげで、「おでこは剃れば広くなる!」というとんでもない勘違いをしてしまったのだ。
わたしは春休みに生え際を1センチくらい、いきなりカットしてしまった。
今思えばなんてアホかと思うのだが、それで当時のわたしは、「これで可愛くなって友達がたくさんできて・・」と夢想していた。

が。

そんなおかしなおでこの持ち主は、「いじめっ子」の格好のターゲットになってしまった。

1年生。
毎日絡んでくる同級生。わたしは髪が伸びるまでひたすらうつむいた。
クラス対抗のキャロル・コンクールの時には(アーメン学校だったのでクリスマス前には行事が多かった)わざわざみんなの前に出された。
そのうえ、ちょっと横を向こうものなら、指揮者から「気取ってんじゃねーよ!」と罵声が飛んだ。ただひざを組んで横を見ただけなのに。
登校したら私の机がチョークの粉まみれにされていたこともあった。成績があがればまた「ガリ勉」といわれ続けた。
私は2年になってからのクラス替えに、すべてをかけた。

2年生。
クラブは演劇部を続けていた。でも、1年での扱いになれてしまったわたしは、他の部員と話すことすらできなかった。
そんな時だった。何気なく引っこ抜いた髪が、ちょうど頭頂部のあたりだったのだが、
痛いけれどもなんとなく気がまぎれ、私はそれから日がないちにち髪を抜くようになった。
それは夏ごろ始まり、秋口には周りから見て「はげてる!」といわれるまで立派になった(^^;。
もちろんこれは部員の中で、私をはじくいい口実になった。いや、むしろ私のほうから離れていたのかもしれないが・・。
そんなころ、2年で入部してきたMとよく話すようになる。
ただそのころのわたしは、「スキを見せたら・・」というおびえもあって、Mに対しても同じように冷たく、時にはけんか腰になるほど話をした。
ケンカになれば、それは他の先生があわてて教室から顔を出すほどの激しいものだった。
ふだんの生活でたまったストレスを、Mとケンカすることで発散していたのかもしれない。
M、それから3年で同じクラスになったやはり演劇部員のKとは、もう10年の付き合いになる。 
 

★ 2003/08/05(Tue)  her-story [ No.411 

「ここじゃない」

それがあたしの頭を支配し続けた中学3年生。


あたしは夏休みに1ヶ月、アメリカはジョージア州へホームステイに行った。
あたしが訪れたのは昨年にもひとり受け入れ経験のある4Hの家庭で、
Momは図書館で、Dadは何かのスーパーバイザーとして働いていて、
平日の昼間は4人の兄弟姉妹とひたすら家の中でぼんやりとすごした。
会話をした記憶が、あまりない。ホストのHeidiはトランプ遊びに熱中していたし、
どちらかというと3つ下のJenniferがあたしの部屋によく遊びに来ていた。
それから、二人の弟ーCoreyとMathueーも、家中おもちゃのガンを持って走り回っていた。
それでもあたしたちは存外おとなしく、家とその敷地内だけで日々を暮らした。
敷地外に出ることはかたく禁じられていて、あたしたちはきちんとその言いつけを守った。

お昼ごはんはいつも、マスタードとハムをはさんだサンドウィッチとポテトチップス、それにコーラ。
JenniferはDr.PEPPERが好きで、ほかの(あたしも含めた)4人はふつうのコーラをのんだ。
Momはびっくりするくらいやせていて、でもダイエット・コークしかのまなかったし、それはMom専用だった。JenniferのDr.PEPPERと同じように。

来て1週目には4Hのキャンプに行った。バスで"Savanna”を走りぬけ、水平線ではイルカをみた。
夜はダンスパーティで、黒髪のあたしは結構もてたと思う。
あたしともうひとり、Marieという女の子も一緒にホームステイにきていて、彼女のホストであるMaryはHeidiの友達だった。
だからあたしたちはホームステイといってもよく日本語もしゃべった。
英語が上達したかはかなり疑問なのだけれど、今でもあたしの英語には発音にときどき訛りがあるらしい。めったにしゃべらないけど。

もちろん、あたしが中3の夏にのうのうとアメリカで遊んでいられたのは私立に通っていたからで、
たいていの子は1,2年生でそれを済ませてしまうのだけれど―
帰国してしばらくは、上の高校の、英語科にいくか普通科に行くか迷ったりもしていた。
英語は好きじゃなかった。ただ、成績的には英語科に相当するくらいの学力はあったのだ。

そしてあたしの出した結論は、「別の高校に行く」という破天荒なものだった。
そうすればなにかがかわる。
すくなくともこんなに居心地の悪いことはないはずだ。

それから、あたしの頭を一番支配していたのが、「小学校の同級生に、こんなに太った自分をみせられない」という気持ちだった。
そのくらい太ってしまっていた。


秋からは要綱や過去問を買って猛勉強の日々。なにしろ他県では学力偏差そのものがちがう。
県内では「どこの高校にもいける」レベルでも、その高校への判定は「E」。
県のレベルが異常に低かったのね(^^;
もうひとり、県内トップ高を受ける子がいて、あたしたちは一緒に勉強した。
図書館で、毎日毎日、9年分の過去問を解きつづけた。
それも数学だけ―中学校の英語教育のおかげで、あたしの英語力は今では考えられないくらいで、
国語はもともと得意だから、とにかく苦手な数学だけをおさえた。
毎日数学の先生をつかまえた。来る日も来る日も、冬休みは一日10時間勉強した。苦ではなかった。
数学は苦手だけれど嫌いではなかったので、自主的に机に向かう日々だった。
そして9年分の過去問を、休み明けにはすべて解けるようになっていた。

そして受験当日。
あろうことか、大雪。あたしはものすごい雨女で、あたしが外に出ているときだけ雨が降ったりすることがよくある―
抑えの、「上の」高校の受験日も大雪だったけれど(それで試験時間が変更になったくらいだった)、
この日も交通機関が一部麻痺するほどの降りようだった。
2日続けて、2校受けた。つごう3校受けて、2校受かった。「上の」高校と、第1志望の高校。
第1志望の高校の発表日は、「上の」高校の入学手続きの締切日だった。担任から「受かったよ」といわれた瞬間、
「上の」高校へ行く気持ちはすっかり飛び散って消えた。
母は「本当に行くの?」と言ったが、あたしはごくかるく「うん、だって受かったもん」とけろりとしていた。
それがどんな結果を招くかなど知る由もなく。

そして、こんどこそばら色の(笑)高校生活が待っているのだと、あたしは期待に胸をふくらませていた。
 

★ 2003/11/04(Tue)  her-story \ No.436 

3月30日。
あたしの誕生日。

あたしは新幹線のホームで、家族に別れを告げた。

「いってきます」


そう。
これであたしは解放された。
あの人間関係から。

そうして、あたしは新しい街で、新しい友達と、新しい自分を生きるのだ。



入学式。
肩先についた髪をおろしてもいい学校。
かなり長い髪と、丈つめしていないスカートと、結びなれない紺のリボン。短い靴下。
・・・ようは、まったく洗練のかけらもない格好だったわけ。

しばらくは環境に慣れることに必死だった。
生活リズムの違う祖父母との暮らし。それにあわせればなくなっていく放課後の時間。
あたしは演劇部に入った。これといって理由があったわけではなく、ただ中学のころからやっていた、だから。

ルーズソックスは何処で買えるのか。あたしはそれすら知らなかった。
スカートを短くする・・・ダメ、あたし、足太いし。
とにかくコンプレックスの塊だった。

「はるかさん、なんでこっちの学校きたの?」
「ああ、あたし、心理学やりたかったから」(うちの高校はエスカレーターで大学に入れた)


・・・・・正直すぎた。あまりにも。

まだ高1。
進路を決めている子なんてほとんどいなかっただろうに。
それからもう、見た目も中身も、あたしは「異端児」扱い。

クラスでは学級委員をやった。ただ「まじめそう」に見えたから。
クラスでの成績はいつも2番。(そういえば3年間ずっと2位だったな)
でも体育になるととたんにどんくさい、足太い・・・

・・・・・・・地獄だった。

「学級委員、もっとしっかりしてほしいよねー」
「勉強できるからっていい気になってるよねー」

お昼を食べていたとき、突然2人の女の子があたしの頭上で怒鳴った。
きょとんと見上げた私。
「あー、いこいこ。なんかカワイソウになっちゃったよねー」

・・・・・・・・・・やり場のない怒り。
そして、無反応。

ひたすら、貝のように。
閉じて閉じて。

だから、1年生のころのことはほとんど覚えていない。
でも、H,K,A,Y,・・・
やつらに対する恨みの念はいまだに消えない。


国語の先生がよくしてくれた。「一発で目に飛び込んできた」って、あたしいったいどんなに目立ったんだか(^^;
昼休み、居場所のないあたしはいつも、非常勤講師室に行った。
今思えば、あそこがあたしの「教育相談室」みたいなもんだったんだろう。


教室に帰れば、奇妙な疎外感と同情の渦に巻かれた。




★ 2004/01/07(Wed)  her-story ] No.450 

クラス替えには教員からの配慮も混ざるのだろうか。
「あいつら」とはまったく別のクラス。もう学級委員に指名されることもない。(まあ、「委員」にはされたんだけど・・・保健委員。)

クラスで、いじめ問題について話し合っているときだった。
クラス委員の子と目が合って、話すよう促された私は、思わず小学校のころのことを話してしまった。

涙が出てきた。自分でもわからなくて動揺した。

あとで、「ごめんね、つらいこと話させちゃって」と、彼女たちが謝りにきたけれど、
・・・そうじゃない。
話せたことで少しはすっきりしたのだ。初めて泣いたんだ、あのとき。

でも、謝られることじゃない。
同情されたかったんじゃない。

でも、それならどうしてあたしは、あのとき話してしまったんだろう?


あたしの中で何かがふっ切れた。
髪を染めた。
控えめだったけどルーズを履いた。
少しだけど、スカートを短くした。
テスト前にみんなで騒いだ。

でも、その年の寄せ書きは、「○○さんて何でもよく知っているね」とか、そんなのばっかり。

あたしは集団にくっついていた。でも、集団に所属はしなかった、できなかった。
だから「○○さん」と呼ばれてしまった。ちがうの、あたしは名前で呼んでほしかったの。
テスト前だけ、やたら親しげにくっついてくる子たち。

嫌われてはいなかった。笑われてもいなかった。
でも、敬遠されていた。

修学旅行は長崎へ。
同じ班の子はシャネルの5番を大事そうにつけていた。
あたしは案内役。あっち、こっち。下調べもほとんど私。好きだったからあまり苦にならなかったけど。

なのに。

眠ってしまった。
在日韓国人被爆者のCさんのお話。彼は「げんばく」がいえなくて、いつも「けんぱく」になってしまっていた。
そのことに深いショックを覚えて、一心に聞いていた、
はずなのに。

ショックと申し訳なさで顔も上げられなかった。


その年はちょうどフランスが核実験をした年だった。
みんなの持っているかばんはほとんどがヴィトン。あたしはPOLO。
国語の時間、事後レポート(これは社会の時間)ならぬ事後川柳に、悔し紛れにあたしは書いた、「核反対 叫ぶその手に ルイ・ヴィトン」

・・・冊子に載ってしまった。

あーあ、また嫌われたよ(笑)。


このときの担任の熱血先生、「俺はスナフキンみたいにかっこよく説教がしたいんだ」と言っていたけど・・・・いや、ムーミンです(^^;。
でもこのムーミン先生に、あたしはいまでも時々会いに行く。
社会人になってから。この仕事についてから。仕事のことも話すし、教育についても話したり。

彼を利用してでも、あたしはこの仕事につきたい。
そんな汚い思いで。 



★ 2004/01/08(Thu)  her-story ]T No.451 

あたしが体調に変な感じを持ち出したのは高2の終わりくらいからだったか。
毎日毎日、実家に電話しないとトイレにいけない日が続いた。
でも、毎晩電話する声がうるさくて、電話代も多くて、祖父母からは毎朝小言を言われていた。
もちろん、請求される電話代はお小遣いから払っていた。

それでも、誰かに電話しなければやってられない日々だった。

いきづまる友達関係。
焦りと不安。

そのうち、あたしは柱に頭をぶつけるようになった。ベッドに突っ伏して、声を殺して叫んだ。


高3になって、友達ができた。やることなすこと突拍子もないその友人は、私にとってとても新鮮だった。
その友達から紹介されたアジアン雑貨の店。
人間関係のわずらわしさと、朝練の早さに祖父から「迷惑だ」と叱られて、部活は2年生の中ごろに止めていた。
「他大学を受験します」といって・・・。でも、誰にも言わなかった。担任にさえも。

3年になっても、部活だとうそをついては街を徘徊した。でも、一人で徘徊する街は心細かった。
一緒に遊びまわったり、プリクラをとったりする友達がいればよかったのに。
だからあたしは、ポケベルの数字→文字変換も遅くまで知らなかった。
ポケベルなんて持たせてもらえない、あたしは勝手にそう思い込んでいたのだ。

2学期の終わりにその店を知って、あたしは毎日そこに入り浸った。毎日そこへ「ただいまー」と帰る日々だった。
お茶を飲んで、取り留めのない会話をかわす。
あたしとポールは、そこの「皆勤賞」だった。・・といっても、あたしが買ったのは大ぶりの指輪がひとつだけだけれど。
今はその指輪は、もう大きすぎてどの指にもはいらない。

学校は退屈だった。
しょっちゅうある門検、服装頭髪検査。
服装検査は友達のスカートで乗り切った。門検は8時前登校と4時以降下校で乗りきった。
授業はひたすら面白くなくて、数学はさっぱりわからなかったし、物理は与えられた公式をとにかく覚えた。
国語と社会はわりと好きでやっていたけれど・・
英語は嫌いじゃなかった。でも、英単語がどうしても覚えられない、ヒアリングができない。
自分を鍛えよう、と総合英語を取ったけれど、きっと下のほうだったんじゃないかな。
もうひとつの選択科目は現代国語。こっちは好きなものをやろうと思った。たくさんレポートを書いた。
今読み返すと恥ずかしいくらいのものだけれど。
破天荒な例の友達も一緒で、よく騒いでは叱られた。

それなりに楽しかったのかもしれない。
でも、何も覚えていない。

お酒を覚えた。何度か一人であけては、朝こっそり捨てた。
でも、あたしはアルコールを受け付けない体質で、小ぶりの缶ハイを3本開けて友達に電話しながら眠ってしまったりしてた。
めちゃくちゃだった、あたしなりに。
あたしに与えられた範囲でめちゃくちゃにやった。

それでも祖父母の統制は厳しかった。門限は「日暮れ」。

友達の家によく泊まりにいった。でも、3人組で、あたしはなんとなくひとり、離れて座っていた。
またか・・そんな思いで二人をながめながら。

壊れていたとおもう。
周りが自分を笑っているような気がして、保健室で勧められるまま、初めて精神科に行った。
「あなたこのままじゃ精神病になる」といわれて、親に渡すよういわれた封書を、そのままポストに投函した。
すぐに親が飛んできて、あたしは1週間、実家に戻ることになった。
そんな大騒ぎになって、保健室に確認を取ったら、保健室の教師は「覚えていない」といった。
・・・精神科受診を勧めたのは、あれはなんだったの?気の迷い?
もう、誰も信じない。

祖父母には「心臓の検査をするから」といってあった。(実際、あたしには徐脈と不整脈があった)

ノイローゼと診断され、処方された黄色い小さな薬。

飲み残しは、翌年、初めてのODに使われることになる。